作 陶 と 沖 縄
2000年7月1日執筆・『 風 』 第三十四号掲載
20003年9月4日本ページ掲載
写真は2003年6月
一九九四年から始まり、以後、隔年毎になった沖縄、那覇、青砂工芸館での五回目の個展から戻り、遅れていた他の急ぎの品を、京の知人に納めほっとしたのか、其の夜から体調がおかしくなり、三日間ぶっ倒れた。普段は元気で、病気知らずの身であるが、一年か二年に一度は、必ず二三日ぶっ倒れる。病院には行かないので、原因を正しく知ったことはないが、疲れがたまり、引き金は風邪だと自己診断している。いつもだいたい同じ症状で、頭が特に偏頭痛がひどく、寒さと熱とが同時で、全身、身のおき処がなくなりぶっ倒れる。ロクロ場の二階が個室になって、母屋と離れているので、そういう時は、情ない独りを痛感する。水だけで食事はとらない。野生動物のようにじっと耐えて、三日間耐えると、また元気をとり戻す。見事に一過性の台風禍のように過ぎれば、後は後遺症もなにもなく、亦々病気知らずの元気な体になる。
今回は沖縄から戻ったばかりであったので、熱と寒さと頭痛の朦朧とした中で、いろいろなものの影と音が交錯した。丁度「風」の最終号に、今度こそ、沖縄のことを書こうと決めていたので、其のことも含めて、言葉として、文章としてその断片的な沖縄の混沌が浮游していた。沖縄のこと、すべてが断片としてしか語りかけて来ず、本当に書けるのか不安もあった。
これは太田昌秀さんの本からの又借りだが、中江兆民の、『三酔人経綸問答』の中で洋学紳士君の言として「……剣を奮って風を斬れば剣がいかに鋭くても、ふうわりとした風はどうにもならない。私たちは風になろうではありませんか」と云わしめている。この風への言が、吾々の同人誌「風」の最終号と、沖縄に対するぼく個人のふうわりとした、しかし強靭な思いとが、入りまじり、倒れた床にあってあれこれと思った。今回五回目にして初めて、離島を訪ね石垣島、竹富島を知った。竹富島の民宿、大浜荘の大浜老人の三線と島唄の響きも、くり返しくり返し鳴り響き、僅か三日間の床の中だったが、沖縄へのおもいを沖縄の響きの中で苦吟した。
自分にとって、沖縄へのおもいと、新しき村へのおもいとは全くの同根である。自分の心の中での芽ばえと生長も、双方時期を同じくしている。自分の村への入村は一九五六年だが、人間はお互いにどのような関係で在るべきか、そしてどう生きるべきかとの問いが、新しき村への生活へと導き、歴史から学んだ『孤島』としての沖縄への自分自身の接し方と絡み合って行った。『沖縄学』としての沢山の書物から学んだ『島ちゃぶ』と、小学生低学時の東京での戦争体験と学童疎開体験とそれと比すべきではない戦場としての沖縄戦と、自分が村の生活の中で青春期の一時期を、時の報道から体得して入った米軍基地の中の沖縄の苦しみと闘争の数々が、客観的な本土での村で生活をしている自分とのあり方に、ずっとずっと影をおとし続けていた。
一九六九年、自分は村を離れ、京都での焼き物づくりの生活が始まった。そして三年後の一九七二年五月十五日、沖縄の祖国復帰の日、初めて知り得た沖縄人、染色作家の平敷慶秀さんを、一輪の白百合を持って下宿先を尋ねた。しかし、沖縄との接点をもっと現実的に、如実にと希っていたが、時はまだ来なかった。其の時は焼き物の友人、油滴天目のすばらしい作品を生み出す安房幸男さんがもたらしてくれた。それが前述の那覇、青砂工芸館での展覧会であり、その主、安本実さん御夫婦である。
在村中からの沖縄へのおもいを、自分の内にだけ大事に包んで来たことが、安本実さんを知り得たことで、自分の希ってもないおもいの形で自分の中で息づき始めた。
沖縄人の苦しみを、もっと知れと、自分は人に語ったことはない。そうでない形で自分は沖縄と沖縄の人との接点を持ちたかった。それが作陶展の形で、会期中、沖縄に滞在し沖縄の人と接し、僕自身が変わろうとしている。
一九九四年の第一回の展覧会の時以来、沖縄での展覧会と意気込んでいた処、「竹田さんには沖縄の焼き物の写しではなく、自分の竹田さんらしい作品を発表して下さい」と云われた。学ぶということは模倣するということではなく、そこからなにを学び、自分がどう変わるかということだ。自分がやっとのことで沖縄との接点を身をもって体得出来ることになり、やはりぼく自身が生長し変わらなければ本当とは云えないのだ。
安本実さんには其の都度そのつど実にいろいろと多角的に語りかけて下さり、示唆される。今回も、いつもそうなのだが何処へともなく黙って伴れて行ってくれる。知念の城跡を、そして斎場御嶽と歩き、海を美しく溜息とともに眺め食事を取りながら考えさせられた。自分が今迄にこれが自分らしい作品とおもっている事柄が、本当に自分本来のものなのかどうか。生まれてからこの方、時代、環境、親、友人、そして学ぶというあらゆる事柄から自然と身についたものであろうと、それが、仮に時代が別で、環境、其の他みな前述と違っていても、自分は自分たり得たかと、今迄にも幾多の人が繰返したであろう、あさはかな問いを自分自身に問いかけねばならなかった。そういう行為に立ち返させる原点が沖縄にはあるのだ。とりわけ沖縄にあってはと思わずにはいられない。歴史的にも『島ちゃぶ』の時代にあって、又、皇国思想の唯中にあって、軍国の世にあっても、自分は自分であり得たのか。
青砂工芸館で知り得た一人々々におもいは自然と落着いてゆく。屋良早苗、さとみさん母子のお二人、沖縄タイムスの豊平良一さん、いろいろな話をきかせて下さる金城俊夫さん、いつもいつも見える新垣初枝さん、松尾美恵子さん、渡久地常さん、安本実さんのお姉さんたち、仲地紀公さん、重松文仁さんとお会い出来ない方達とも、実に優しく静かに向かい合う。だからこそ、ぼく自身がいい作品を生み出すよう頑張らないといけない。今回は、沖縄の作家さんのたくましさを知って下さいと、ガラスの源花源吉さんと前からの迎里正光さんとが海づりに連れていって下さった。迎里正光さんは、安本さんをして「正直と率直さがそのままの姿で歩いている人です」と云われるように、まさにぼくは良き人を知り得た。外間政一郎さんが挙式の忙しい中を来て下さり、勉強するのでしたらと高校の副教材、琉球、沖縄史を持って来て下さった。京に戻ってからすぐ読了し、今はくり返しくり返しあちこちのページをめくっている。
自分にとって、仕事としての作陶がすべてとは思わないが、作陶を通して沖縄との接点を、一番自然な形でおしすすめてゆける場が青砂工芸館であることに感謝している。安本実さんが多角的に自分に語りかけてくれることが、結局は伊波普猷の『沖縄を考えながら生きる道』であることを知る。
沖縄県立博物館に行くと、坂本万七さんが撮った昭和の初期頃の沖縄風影と人物等、坂本万七さんの遺篇、「琉球の民芸」「琉球残影」の中に見られる古いものがパネルとなって何枚かかかっている。坂本さんは古い新しき村の会員だ。温厚で、クラシック音楽の好きな先輩だった。その坂本万七さんの写真を、博物館で見たことの嬉しさは、村とのかかわりを含めてたとえようもない。
かりゆしぬあしび
うちはりて
イ
からや
夜ぬ明きて
イ
太陽
(
ていだ
)
ぬ
上がるまで
イ
ん
上原知子さんの声が、凛々として天からの力強い響きに聞こえる。静かにして厳粛に、エメラルドグリーンの海を渡る。
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