第 5 期

第 11


今思えば、あるかなしかの うつゝの話

母と娘の対話 (二)其の四十


「お母さん、九十三年生きた年月の重みって、すごいわ」
「なんだい、いきなり。お前が感慨深げに云ってどうする」
「自分のことではないわ。自分としての実感は、勿論なくてよ。でも分りますよ。私には、まだまだあと三十数年、それを思っただけでも、九十三年の重みはすごいわ」
「わたしは唯、生かされて生きてきただけだ。その重みなんて分らん」
「お母さん本人は、それでいゝのよ。私たち子供が、お母さんの生きた重みを感じて、あとは生きますよ」
「分ったような、分らんような話だけど、残るというか、残されると云うか、お前たちこそ、これからの世の中は大へんだよ」
「お母さんの時代のような、アジアへの侵略や対戦はないわ」
「そうであってほしいね。愚かなことは、くり返してほしくないからね。でも人間のすることだ。愚かなくり返しは必ずあるよ」
「いやだし、それは絶対駄目よ」
「でも、わたしはもう新聞も読まないけど、訪れる人がいろいろ聞かせてくれる。世界は今、恐ろしい時代に入っているよ。地球をいくつも破壊させるだけの核を、人間は造ってしまっているんだってね」
「そうよ、私たちは学んでいるわ。誰も止めるだけの力を持ってないの。けれど、一人の力ある人に期待するのでなく、弱い一人一人の力が、必ず止めるだけの大きな原動力になると思ってるわ」
「そうであってほしいね。人はすぐ、偉大な人の指導を仰ごうとするけど、そういう時代は終ったと思うよ。偉大なる指導者なんていらないよ。偉大なる一人に頼るのでなく、一人一人の内に宿る小さな力に頼る方が、間違いないよ」
「私も同感よ、一人にすべてが従い、靡くと云うのは、いやだわ。静かに自分一人でも、生きられるのがいゝわ」
「動物や生き物は、みなそうしているのと違うかい。偉大な指導者が、いつも全体をひっぱっているとは、とても思えない。その時その時のボスはいるよ、でもボスという存在があるだけで、それは変るもんだ。永久不滅のボスなんかいらないよ」
「個として生れてしまったので、個として生き、個として死ぬよりしょうがないわ。勿論、全体の中の個だから、影響は受けるし、触れ合う以上、密接な関係も出来るわ。でも中心は自己よね」
「そうだろうね。それが自然だよ。皆同じというのはおかしいよ。賛成する者がいて、反対する者もいる。全体が全体として靡く時代は懲りごりだ」
「でも大国や、力を持った人は、どうして他をも靡かせようとするのかしら」
「愚かさだよ。いつか分るよ」
「達観出来るのかしら。いゝ時代に生きたと思えるのかしら」
「さあ、分らんね。よく今の時代は嫌いだ、江戸時代がいゝとか、平安時代がいゝとか、生きてもいないのに、分る筈がないと思うが、いつの世でも同じようなものがあるよ」
「唯の夢うつゝかな」
「お前もおかしいね、夢うつゝもあったもんじゃない。どちらでも同じということかい」
「そんな気がするわ」
「すごい達観と違うかい」
「お母さんとこうして、いろいろ話していること自体、夢かうつゝかと思えてよ」
「おやおやそれは困るよ。わたしはまだ生きているし、甘いものを食べたいと思っている矢先だ」
「事実は小説より奇なりと、よく云うでしょう。数奇な運命とも。意識したらみな、そのような人生を歩んでいるのと違うかしら」
「お前の云う因果か。でも今は因果の話はよそうよ」
「若い人がよそうというのは分ってよ。年老いたお母さんが、避けるのもおかしいわ」
「なにを云うか。よくよく分っているからだよ」
「そうだとしか思えなくてよ。どんなことでも、はっきり云われたら、反発を抱くわ」
「そうだろ、わたしはもうなにも考えてない。考える必要もないと云ってるけど、実は…」
「実はどうしたの、云って」
「歳をとると、へんに口をつぐみたくなるもんだ。わたしのせいじゃないよ。わたしじゃない脳が勝手に、口をつぐませるのだ」
「私ではない脳が勝手にと云うのは、実感ね。遺伝子かしら」
「お前はそんな言葉、どこから仕入れてくるんだ」
「おかしいわ。仕入れてくると云うのも、実感のある言葉ね」
「世の中、どんどん変るね。ついてゆけないよ。もうついてゆこうとも思わないし、やっぱり人間も住み分けた方がよさそうだね。昔ながらの生き方、いつ頃がいゝかな、縄文時代の狩猟採集でもいゝや、そんな生活をしたい人だっている、その人達は島でそのように生きられたらいゝね」
「それが出来そうにないのが人間よ。すぐ干渉されるわ。愛国心のはなはだしい欠如とか云われるわ」
「国という観念にとらわれている内は、駄目だと思う。国とか民族とか、宗教とかみなとっぱらったらいゝんだ。もともとないに等しいのだから」
「そうですよね。争いのもとはそこにあるのですものね」
「お前には日の丸がどう映っているか分らないけど、わたしは今は見るのもいやだよ。わたしと同じような時代を生きた年代の人は、特にアジアの人々はそう思っている人は多い筈だ。当り前だよ、その国の象徴が国旗になって見るのも堪えがたい」
「今は自家の紋章を、うるさく云う人はいないわね」
「そうだろう、知らない人だって多い筈だよ。村や町でもあるんだね。みなマンホールの蓋のように見えてしょうがないけど、あんなもの、あってなきに等しい。だから、あってなきがいゝんだよ」
「あって無きか、やっぱり夢かうつゝか…」
   
   
   
 
 

2004

第5期 第11話 完



前のお話へ! 第5期目次 次のお話へ