第 5 期 第 7話

今思えば、あるかなしかの うつゝの話

母と娘の対話 (二)其の三十七


「随分涼しくなって来たわ。お母さんは、四季のいつが好きなの」
「わたしは丈夫に出来ているくせに、夏の暑さと、冬の寒さは駄目だね。不快になってくる」
「不快とはきついのね。仕事が昼日中、外を歩く仕事だったですものね。時には当もなく」
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「当もなくはないだろう。そんな悲しい仕事じゃない。唯、保険のセールスが出来たら、外のどんな仕事でも出来ると、上司にはよく云われたね。わたしは個人より会社契約の仕事の方が多かったので、それに会社に行けば、上の人に可愛がられてね。その点は恵まれすぎた位だ」
「敗戦で、朝鮮から引き上げて来て、それから保険の外交の仕事が始まり、七十七歳まで現役だったのですものね。唯々、頭が下がります」
「お前ら三人が結婚してからは、誰の為でもない、自分の為に、自分が好きだからやっていただけだ。人を訪ね、人と話すのが好きだったね。結婚の仲をとりもったこともある。お前さんと違って、人に褒められると嬉しくなる性分だから、ついつい元気になり、 明るくなり、よく笑ったもんだ」
「無責任と思える程、笑っていたわ」
「それはきつい御言葉だ」
「あ、ごめんなさい。悪い意味ではなくてよ。相手が困ったり、深刻の時でも、なんとかなりますよと、笑っていたでしょう。相手によっては、ついてゆけないと思ってよ」
「それはあるね。でもなにごとも、なんとかなると思わなければ、やっていけないだろう」
「そうね。お母さんの場合、いろいろあってそういう人生観が、完全に身についたと思うわ。それを、過程を省略して、結果のなんとかなるだけを云われると、気の弱い人は駄目なのよ」
「わたしは、お前と違って大雑把だ。大雑把の女性もいるもんだ。くよくよしたって始まらないと、すぐ思ってしまう。ケセラセラだ」
「口癖ね」
「なんか不満そうだね」
「いや、羨ましいと思うわ。身内だから本当にそう思うだけよ。でも他人はどうかしら」
「他人が自分をどう思うか。それは大事なことだよ。けど絶対じゃあるまい。自分が自分を納得してたらいゝんだよ」
「その通りだと思うわ。でも」
「お前はでも、でも人生だね。すぐでもが出てくる。でもとデモは一緒かな」
「デモってデモンストレーションのデモのこと」
「デモ行進のデモだ。わたしはこれしか知らない」
「私の助詞のでもも、デモ行進のデモとか一緒なの」
「言葉の音が一緒なのは、感じとして、同じようなものがあるような気がして来るんだ。 違うことでも、いやいや似ているぞと思ってしまう」
「そんなものかしら、でもそうかも知れないわね。偶然の共通性が隠されているかも分らないわ」
「まあまあ人はそれぞれで、又その仲でそれぞれのよさがあるもんだ。お前のよさと私のよさを比べる方がおかしいわけだ」
「お母さんはすべて陽よ、私は」
「お前は陰ということか」
「陰の人は、お蕎麦が好きよ。お母さんはお蕎麦ではもの足りなく、おうどんね。それも太いおうどん。夏の暑い最中でも、太いおうどん」
「そう云えばそうだね。聞いたり、見たりすると同じものがすぐ食べたくなるね。あれはどういう現象なのだ」
「学者の人に聞くと、それは脳のなんとかの部分のなんとか現象と云って、視覚、聴覚が、嗅覚を刺激して、その嗅覚が脳のなんとか部分を刺激して…ということになるのかしら」
「すべての現象に、学術用語がちゃんとついている、というのはいかにも人間らしいね。 動物はそんな学名にはとんと無関係だ」
「学術用語がつくと分りやすいわ。私なんか、すぐ納得させられてしまうわ」
「専門知識には弱いんだ。それは時に危ないよ」
「分っていてよ。へんに理詰めで納得させられることには、反抗したくなる時があってよ。私は理屈には弱い処があるから、理屈に反抗したくなるの。内の人が理屈が好きでしょう。あれには立ち向かいたいわ」
「お前さんの家のことには、わたしはノータッチだ」
「それでいゝのよ。ともに歳もとってゆくのですもの。歳をとる…、お母さんのような歳のとり方をしたいわ」
「わたしは寝たきりだ。寝たきり老人に憧れても、しょうがあるまい。わたしの歳でも、まだ現役で動いている人がいる。足元にも及ばないよ」
「一○○歳でも現役の人がいますものね。人の歳をとるという現象は、人によってどこで、何故いろいろとかわってしまうのかしら。そこのとこの確信を是非知りたいわ」
「お前の好きな、脳のある一部分の現象で、それはなんとか現象の結果です、と云われそうだね」
「脳を自分の力でコントロール出来たら、可能という単純なものでもないわ。相手は脳よ。はかり知れない曲者よ。自分の脳でありながら、自分のもの、自分が掌握していると思った経験がないわ。脳の方が私を思いのまゝにあしらっているような、気もする位よ」
「お前、面白いことを云うね。自分の脳であって、自分の脳とは思えない。これも又脳なしということになるのかね。どうも脳なしの話はやり切れないよ。まあ仮に脳なしでもいゝから、一服しようよ」
「一服したいという衝動も、脳のどこかが刺激を受けて、一服にしようと命令を出しているのよ。考えたらすべて、脳の思うまゝね。いやだわ」
「いやでもしょうがあるまい。だから脳が死んだら、すべて終りだよ」
「体の部分がまだいきていても」
「そりゃそうだ。生きていても自分じゃあるまい」
「自分の体のある一部分が確実に生きているのに、自分じゃないと云うのもおかしいわ」
「これは大事な問題だが、わたしは余り深刻に考えるのは遠慮したい方だ」
「そうね。今ふっとよぎったことだけど、脳があっても脳なしで生きるということは、脳に支配されないで、自己が生きているということになるのかしら。そうしたら、脳なしは、大したことということになるわ。ねえお母さん、そうよね」
「あまり脳を駆使することもあるまい。一服にしようよ」
「……」
 
 

2003

第5期 第7話 完



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