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老人は手を休めて、腰を上げました。
かすかな音ですが、耳鳴りがして、それは確実な響きとなり、背中が急に暖かくなりました。誰かの手が、触れている感じです。見廻しても、人影はなく、静まりきった山野があるのみです。
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秋も徐々に深まり、あちこちに収穫を終えた田畑から、煙がたち登っています。このあとに訪れる冬の前の、ひとときの穏やかさです。
誰もいないのに、次から次へと、いろいろな人の姿が、脳裏をかすめます。何故なのか分りません。おもいもよらなかった人のことをも、かすめます。それは一瞬の変りようです。これは恩澤と思いました。自分が生きていて、今在ることの恩澤こそ、自分のすべてと思われます。
とうの昔に去った父や、母、元気で居ますか。次々にガンに侵されて逝ってしまったきょうだい達。今いずこで、何をしていますか。今は回想の中だけに生きる、自分の生を賑やかに満たしてくれた沢山の人達。
あーと手をさしのべるような、感覚の一瞬、老人はわれに帰りました。近頃老人は、時々この感覚のおとずれを受けるようになりました。これこそ、普段忘れていることの多い人々が、脳裏をかすめてゆく得がたい恩澤と思います。自分は今、自分を支えて来てくれた、沢山の人と一緒に在るような気がしてなりません。自分は自分一人で生きていることに、間違いはありません。自分の個の上に立って、自分の個としての、精一杯の生活があるのみです。しかし、急におとずれるこの恩澤にこそ、自分の存在の得がたさが、見えかくれします。誰かさんの声が聞えます。人は自分一人で生きていけるものではないと。見守りがあり、励ましかあってこそ、生きていると。
人々が、いやすべての生命が、連綿として生きてゆく姿こそ、宇宙開闢以来の不思議でしょう。吾知らず生まれ、生き、そして滅びてゆく。又、別々の姿になり、吾知らずに生まれ生き、亡くなってゆく。この連綿とした繰り返しは、どこから来て、どこに向っているのか。知るよしもありません。しかし、この地球そのものが、生命体である限り、まれにみる恩澤の直中に、くりかえさせられる事実なのです。なんの為に生きる、そんな膨大な深渕なことは分りせん。自分一人ならともかく、地球上のあらゆる生命が、それも開闢以来の、数え切れない生命のことを解くことなど、出来る筈かありません。生きている間こそ生きる、これしか分りようはありません。しかしそれだけではないのです。一瞬、脳裏をかすめる人々の、なんと多いことか。自分が今在ることの慥かさは、その人々とともに在ることの証しです。父から受けつぎ、母から受けつぎ、今自分は在るのです。
昨夜は、しとしととそぼ降る雨でした。空から、遥か天高くから、降ってくる雨が、どうしてこれ程に、細かく、優しい姿になって、地球上に降りそゝぐのか。今更ながら、不思議に思えてなりませんでした。この夏は暑さ厳しく、雨が少なく、田畑も、植物も山々も、強烈な暑さに喘ぎましたが、必ず雨の到来はあり、台風一過とともに、恵みの雨となりました。この不思議さ。今在るということは連綿とあることの証しです。しかしどこに向って在るのか、それは分りません。
銀河系そのもの、宇宙そのものが、ものすごい速さで、どこかに向っているそうです。何故そうなのか。そんな莫大な、しかも深渕な営みが、人間に分る筈がありません。しかし、人間も生物の一員として、地球に在り、地球とともに生きているのです。開闢以来在り、今も在るのです。個がそれぞれに生きる姿こそ連綿と生きて来た証しです。
近くの梢で、百舌が鳴きました。天高く、はりさけんばかり澄みとおります。百舌は必ず、忘れずに訪れます。あー冬になると、静まりきった冬になると、鶲が、チッチッと身近に来て、美しい姿をみえかくれして、離れません。この冬、鶲も忘れずに、きっと訪れるに違いありません。生命すべてが、くり返しくり返し連綿として。しかし何処に向って進んでいるのか。刻々と、この刻々ときざみゆく時そのものこそ、なんなのか。真の静止はあり得るのか。宇宙の振り子は、一体誰が打ち振っているのか。莫大にして、偉大なる不思議こそ、天恵そのものなのです。
第4期 第10話 完
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