第 4 期 第 2 話




子供の視線は低く、見上げなければ、母親だとは分りません。けれど不思議な感覚が身に付いていて、母親のどこかに触れていさえすれば、決して他人と間違えることはなく、母親を母親として分って、安心していられるのです。

けれど、あの時はほんの一瞬の出来事でした。衝撃の時は、走馬灯のように走りますので、スローモーションの動きとして残りますが、たぶん一瞬であったと思います。そう思おうとおもいます。そうでなければ。
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 何故 その人混みの中に入ったか、その意識も ぼんやりです。三の酉の市で、普段より混み合っていました。神仏への信仰がある訳でもありません。なんとなく、どこを歩いても同じような気持もあって、自然と人混みの中に吸い込まれたようです。
あの子は二才になったばかりで、可愛い盛りでした。よく目の中に入れても痛くない、と云いますがその通りの子供でした。ことさらに笑みが可愛く、なんでこのような笑みが出来るのか、不思議な程です。勿論いかなるものへの敵意はなく、いささかの不安もなく、着物の袖の端を、小さな手でギュッとつまんで、安心しきって歩いていました。着物に触れていさえすれば、安心しきっている子供の姿程、可愛く、美しいものはないでしょう。目で見て、又考えて、安心しているのではないのです。唯々、一寸触れているだけで、母親であることを、悟り、安心しているのです。このことはよくよくわかっていました。
賑わいの出店に、一寸気をとられて立ち止まっていた時に、それは一瞬だった筈です。子供の手がありません。振り向いてもいません。あっと小さな声を出しました。その時、これも一瞬に、このまゝ行ってしまおうとのおもいが、よぎりました。決して足手まといではありません。しかし子供のことを考えると、その方が幸せになるかも、この子の為のようにもおもえました。今迄もそのようにおもった訳ではありません。その時だけ、瞬時の判断が、そうおもわせただけです。可愛ければ猶のこと、この子を手放そうと。
ほんの数秒間離れた人混みの中に、やはり着物を着た人の袖のはしをつまんだ吾が子を見つけました。その時、その女の人も、自分の着物の袖をつまんでいる子供に気づき、あっと声を出したようで、しゃがみこみました。可愛い顔にひきつけられるように、今にも抱きかゝえるような表情でした。その時、あの子は自分の母でないことを知ったのです。泣くでなく、キョトンとしてあたりを見渡し、放心したように立っているこちらに気がつき、ヨチヨチと歩み寄ったのです。
手をさしのべた訳ではなかったと思います。不思議なもので、向うのおひとが手をさしのべて子供に触れようとしたのです。子供が離れるのを、待ちなさいと云っているように、手をさしのべ、こちらに気がつかれました。そして後髪をひかれるような姿をのこして、人混みの中に消えました。

子供はなにごともなかったかのような顔で、また着物の袖のはしをつかみました。
われにかえり、歩き出した時、今度は子供の手をしっかりと握りました。小さく柔らかく、暖いそのぬくもりに、泪がこみ上げてきました。
三の酉の賑わいの中に、つるべおとしの陽がさーとさしこんできました。その時はなんの音も聞こえなかったと思います。無言の静寂の中、唯々、陽を受けて歩いていました。

2002、9

第4期 第2話 完


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