第 3 期 第 30 話

今思えば、あるかなしかの うつゝの話
母と娘の対話 其の三十



「お母さん、やめてほしいことがあるの」
「いきなりなんだね」 イメージ拡大表示700×491(42Kb)
「この間、お母さんを見舞って下さった方と外でお会いしたの。その人が、お母さんがあなたのことを、とても褒めていたと云うの」
「わたしはお前を人さまに褒めたりはしないよ」
「その方がいろいろ話して下さいました。私、自分のことが語られたり、褒められたりするのは好きではないの」
「お前は小さい時からそうだよ、よく知っている」
「やったやらないは、自分だけが気持の中で、そう思ってたらいゝの、他人に自分の家の者を褒めるものではなく思うの」
「それもお前の家のことを思うと、よく知っているよ。お前はなにかあった時、先ず家の者を疑うね」
「どういうことだったかしら」
「聞いたら忘れるものじゃない。新聞に夜の放火魔のことが、しょっちゅう載ったことがある。その時、お前の長男が丁度悩みの最中の年頃で、たまたま夜外出した翌日の新聞に、放火の記事が載り、お前は、これはそっちか、とか云ったらしいね」
「あー、ずっと昔のことね。そうよ、長男だけではなくてよ。年輩の身形りの貧しい人が、僅かなお金を掴んで逃げたという郵便局強盗の記事か載ると、あの人かしらと思うわ」
「よく云うね。先づ身内から疑えか」
「身内どころか、自分を疑うわ。若い時、なにかの話を聞きに田舎の公会堂に行き、帰って来た時、有線放送で自転車を間違えて乗って帰った人がいると云ってたの。私かなと冗談で思ったのよ。そして自転車を見たら、まさしく犯人は自分だったことがあるの。 あの時、私かなと思わなかったら、全く気がつかなかったわ。冗談で、自分かなと思ったことで確かめ、自分であることがわかったの。そんなことがあるからよ」
「でも普通は、他人が疑っても、親は子供を信じるのと違うかい。仮にあやしいと思っても、お前がする筈がないと、信じてやるものと違うかい」
「そうではないの、先ず疑う。聞いて、それからそうじゃないと分ればいゝの。疑いもせずに信じることは出来ません」
「お前の信仰もかい」
「神さまだけが、唯一の例外よ。神さまを疑ったり、験したりは絶対駄目です。これだけが唯一の例外なの。人間を疑うのはいゝの。身内のものは先ず疑わないといけないわ」
「ほうそうなんだ。お前さんの褒められたくない感情は、その辺りから来ているんだ」
「私自身が、自分を疑ってよ。第一褒められるようなことはしてなくてよ。すまない気持で生きてます。子供に対してもそう、もっともっとして上げられなかったかと思うわ」
「お前さんは、いゝ人に一杯囲まれているように思ってるけど」
「そうよ、自分の力じゃなくてよ。みな優しい方ばかり」
「自分を卑下することはあるまい」
「卑下したことはないわ。自分よりみな立派に見えるだけで、自分の小さゝを感じているだけ」
「一寸微妙な処だけに、ひとには分りづらいが、自分で自分のことは一番分っているからね。お前さんの神経には、触れないようにするよ」
「神経に触れてはいなくてよ。全く動じない処がある位よ。頓感ですからね。そうじゃなくて、褒められるようなことをしてないのに、褒められるのはいやなの」
「なかなか難しいね。素直に喜んだらいゝのに」
「同感の時は喜んでよ。私は単純よ。ひとつも複雑でなくてよ。よく云われてよ。単細胞みたいだ」
「誰にかい」
「あの人よ。その通りと思うわ」
「わたしはお前に、ありがとうと云ったことがない」
「当り前よ。親が子供にどうして、面と向かってありがとうという必要があるの」
「お前には云えそうもない雰囲気だ」
「それでいゝのよ。私自身にありがとうと云う気持があれば、それでいゝの」
「それじゃ久しぶりに一杯どうだろう」
「お母さん、久しぶりはなくてよ。それに一杯は品がないわ。ちゃんと用意はしてあります。ひと口サイズの大福があったのよ。可愛い大福よ、これなら大丈夫。お茶も九州の手揉みの送られたもの。一杯じゃなくて、一服しましょ」
「亦々ありがたや」
 
 

2002

第3期 第30話 完



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