第 3 期 第 15 話

今思えば、あるかなしかの うつゝの話
母と娘の対話 其の十五



「お母さん、長い人生の中でどんな人が好きでした」
「わたしはまだ生きているよ。過去でなく、これから好きな人が現われないでもない」
「元気だわ。それはそれで置いておいて、過去の人の話でいゝわ」 イメージ拡大表示425×600(29Kb)
「過去より、明日おもいがけずにいゝ人に会えるという方が、いゝと思うがね。まあいゝか、唯云いたいように云っていゝのかい」
「その方がよくてよ」
「お前のもの云いはいつも、いきなりなので困るが、即座におもい浮かぶのは清々しい人かな、男女を問わず」
「清々しいひとね。やはり男の人だわ」
「そうとは云えないよ。女の人は女を意識せざるを得ない世の中なので、難しい面が生じてくるのかな」
「当然、女は女であることを強く意識して生きます。生きざるを得ないわ」
「わたしは保険のセールスを、仕事として来たから、その点はよく経験した。でも中には清々しい人もいるよ。若くてもいるよ」
「それは生れよ。持って生れた素質の面がかなりあってよ」
「そうかも知れないね。本人はあまり意識しない。その処に清々しさの本質があるとしたら、やはりもって生れた素質と云えるね」
「羨ましいわ」
「おかしなことを想い出した。わたしは五十を過ぎたある時、突然ね、自分はいつも奥歯を強くかみしめていることに、気がついたんだよ。はっと思って奥歯をゆるめる。しかし又いつのまにか、ギューッと噛みしめている。その時、自分はこんなにも奥歯を噛みしめている人生を、歩いて来たということに愕然としたんだ。情けない気もした。お相撲さんは立合いの時、奥歯を噛みしめると聞いたことがある。
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だからどうしても奥歯から悪くするとね。わたしもその時は、奥歯はみなガタガタで、すでに欠けているのもある。これはまずいと思ったね。これからは奥歯を噛みしめない人生を歩もうと決めた。その時はすでに奥歯も欠けていたので、ギューッと噛みしめられなかったこともある。ぽかんと口中が空いている。しまりがなくてね。そのことでなんとなく、人生観は変った気がする。清々しい話とは全然違うけどね」
「奥歯を噛みしめる人生か。私には理解出来そうだけで、無理かな」
「お前は依怙地なところもあるけど、お父さんに似て、すっとした処もあるよ」
「清々しさでなく、すっとね。いろいろ段階があるのね」
「一級品の清々しさから下はいろいろとね」
「当然よね」

「当然と云えば、わたしは権威の好きな人、権威に弱い人も両方とも苦手だね。小さな組織の中で、小さな社会の中で、権威づけしてそれがどれ程のものかと疑うね。真価は上も下もなく、強いも弱いもなく、すでに現われているもんだよ。話はずれるが裁判の判決も嫌いだね。なんで判決を人に委ねるのか、とんと分らない。自分が一番よく知っている筈だ。自分が信じる処に落着きの心を決めたら、それでいゝのだ。なんで人の判を仰ぐのか、さっぱり分らない。中には人生の大半を裁判で費やす人もいるだろう。その正義感には打たれても、勿体ないと思うけど。権威で想い出すけど、自分が自分だけで自覚して、その真実を知ればいゝのに、『無事是貴人』と大書して床の間に飾る人、これは嫌いだね。
いったいなにを人に伝えたいのかね。坦々として質素な生活を送っている家族が、夕食の時みな集って、今日の無事に手を合わせる、これが真実の姿だよ。それを『無事是貴人』と大きなお寺の偉い坊さんでないと価値がないと、管長さんに大書して貰う。そして人の前にうやうやしく飾る。実に情けない話だ。第一、坊さんが『無事是貴人』と云ってどうする。坊さんはそんな暇はない筈だ。人の為に、人間の苦の矢面に立って生きるのが坊さんの努めだ。それが、『無事是貴人』と大書してどうするんだ。自分の境地は勿論大事だよ。でも坊さんの目は、廻り中に広く広く長く長く向けられてなくて、どうするんだと思うよ。一服の清々しさ、これはわたしもよくよく経験しているよ。でもそこに権威を置くなど情けない話だ。大きなもの、強いものに寄らば大樹の陰は、現実として分らんことはないけど、自分なりに自分の力を出しきって生きる。これがいゝね。そうしているのを見ると、その生き方に清々しさが現われている。自然と清々しさが生れていると思うよ。いつも裸の心で、真価をさぐりたいね。自分なりでいゝんだよ。ガチガチに奥歯を噛みしめることもない。わたしゃ奥歯どころか、今はとうとう一本もありやしない」

「………」
 

2002

第3期 第15話 完



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