第 3 期 第 6 話

今思えば、あるかなしかの うつゝの話
母と娘の対話 其の六



「長いこと生きて、やっぱり忘れられないことって一杯あるでしょう」
そりゃ、ゆっくり想い出したらあるに決っているよ。けど普段はもう忘れているね。それでいゝのと違うかい。自分が十二分にかみしめた。それでいゝよ、人に話すことでもない」 イメージ拡大表示 452×600(37Kb)
「でも聞きたいわ」
「あまり話すことは好きでもないね」
「あら、いろいろ話しているわよ」
「そうかい。ほんの一部の筈だけどね」
「なんせ、長い生涯ですものね。塵もつもればなんとかよ」
「塵とはお前も口が悪い」
「皮肉ね。そういう意味ではなくてよ」
「今ひとつのことを想い出したよ。お前と一緒に大津の老人を尋ねたことがあるね。立派な人でわたしは尊敬していたよ。食事に呼ばれたね。静かな部屋で、琵琶湖を背にしていろんな話をしてくれた。その中で『自分の人生を振り返っておもう時、生きるということは食に盡きる』と云われたね。わたしはびっくりした。自分の尊敬している人が、 自分の人生をかえりみて、食に盡きると云ったことが、不思議なおもいにかられる程、びっくりした。そんな、というおもいだね。その時具体的な話をしてくれた。
関東大震災で、被災者の若い母親が、追いつめられて子供のおにぎりを奪って食べた。その母親の顔が鬼そのものだったとか。終戦時の買い出しの折、丁度鉄橋の上を渡っている時に汽車が来た。その母親はとっさに重い荷を背負ったまゝ鉄橋にぶらさがったとか。わたしも想い出したよ。買い出しに小さなお前をつれて出かけた時、車中で一斉取締が始まった。みつかると没収されるからね。みんな必死で、走っている窓から投げる人だっているんだよ。あとから捜しに行くんだね。わたしもどうしようかと思った。その時お前がね、お前は二つかやっと三つ位だった。とっさにお米を自分のスカートの中に隠したのさ。係官が来た。お前さんのまんまるいあどけない必死の顔をみて、黙って行ってくれたよ。その時お前の小さなスカートからは、お米がはみ出していたんだよ。あどけなかった。天使ってあんな顔だよ。せつない、せつない話だ」
「お母さんから聞いて、私も覚えていてよ。その事件そのことは全然覚えていないわ。でも話として覚えていてよ。決して忘れることの出来ない話よ」
「ほらお前の東京のお母さんの話も食べる話だったね」
「そうよ。東京のお母さんがね、晩年になって子供さん達に、お前たちが小さい時、おなか一杯食べさせられなかったことが、情けなくてねと、そのことばかり云われていたんですって。みんなが、お母さん、そんな昔の話はもういゝじゃないですか、ぼくら一人として病気したものはなく、みな元気に育てゝ貰ったのだから、と云ってもお母さんは、子供七人のおなかを満たして上げられなかったことだけが想い出されて、悔やまれたらしいわ」
「せつないね。敗戦直後の東京の焼野原での家族十人、その内子供七人の生活だろう。大へんだったんだよ。晩年のお母さんの脳裏の中は、子供のひもじさだけが残ったというのは、貴い話だよ。偉い人だね」
「何故そんなさゝいな一事にこだわるのかと思ったら、バチが当たるわ」
「そうだよ。老人になって徘徊する人がいるらしいね。日中歩きまわるらしい。あれも、子供の帰りや、子供の心配事で歩きまわるらしいよ。これもせつない話だね」
「人生食に盡きる。これはお母さんの年代で終りなのかしら」
「そうとも云えるかも知れないが、今世界を見てごらん。貧しい国の人、難民、みな食事も出来ず、その姿はなんにも変っていないよ。ごく一部の現象と思ったら駄目だと思うよ。食そのものを問う真摯な態度が大事だよ。飽食の時代だなんてとんでもない。今も昔も食は第一義の問題じゃないなんて、とんでもない話だ。一番大事な問題だよ」
「私もよく思うわよ。戦争が終ってソ連の進攻の中で、朝鮮から引揚げてくる時、私は赤ン坊で姉二人は幼児でしょう。お母さんは一体どうして、私達をかばってこれたのか奇蹟としか思えなくてよ」
「奇蹟か。そうかも知れないね」
「私は孤児として朝鮮にのこされたとしても、やむを得ないとおもえてよ」
「まあまあそれぐらいにしようか」
「おなかはすきませんか」
「今はなんにも要らないよ。お前も覚えているかい。大津のあの老人は、漬物をまるで宝物を頬ばるような顔をして、おいしそうに食べていたね。粗末なものでも、実においしそうに頬ばる人と一緒に暮らせるのが一番幸せだね」
「お父さんは違ったの」
「お父さんはそういう処もあったね。贅沢も知っていたけど」
「ニコニコ頬ばって食べる」
「そうだよ。どんな粗末なものでもね。それにつきるよ」
「でもお母さんはもう歯がないでしょう。残念ね」
「とんでもない。歯のないお陰でモグモグモグモグ飲みこむのを忘れるくらいだよ」
「よく食べるわ。感心してよ」
「いや味かい」
「そんなこと云わないで、本気よお母さん」
「お前は堅物だね、やっぱり。引き出しから堅焼のせんべいを出しておくれよ。無性に食べたくなった、いや、しゃぶりたくなったよ」
「………」
   
 

2002

第3期 第6話 完



前のお話へ! 第3期目次 次のお話へ!