第 3 期 第 5 話

今思えば、あるかなしかの うつゝの話
母と娘の対話 其の五



「きょうはお母さんに話して、どうしても許してほしいことがあるのよ」
「そういう話なら聞く耳もたないよ」
「それでは駄目なの、黙っていることは出来ないのよ」 イメージ拡大表示421×600(27Kb)
「まあ、どういうことであろうと、わたしとお前の仲のことなら、わたしは聞く耳もたないと云っているのだから、お前の腹におさめておきな」
「でも一寸でも聞いて下さい」
「困った人だね」
「お母さんから預かっているお金の一部を、子供の為に使ってしまったの」
「そうかい、それでもう十分だ。それ以上はもう云わないでおくれ」
「でも話をして許してほしいわ」
「馬鹿だね、許すも許さないもないだろう。そういう時は誰れでもあるもんだ。お金の融通のつかない時程、困る時はないし、やるせないもんだ。お前達の役に立ったなら、それだけで十分だ」
「必ず返すわ」
「そんなことも云わない方がいいよ。お前が返せないといっているんじゃないよ。世の中にはお金であろうと、恩であろうと必ず返したいとおもっていても、どうしても返せない人は一杯いるよ。その人達のことも考えて上げないとね」
「私は必ず返してよ」
「お前は堅物だね。返せる人はいゝよ。でもどうしてもめぐりあわせで返せないこともあるんだよ。そのことも考えなと云っているんだ」
「そうね。偉そうなことは云えないわ。お母さんのお金に手をつけることなど、おもいもよらなかったですもの」
「そうだろう、でもそれでいゝのだよ。そういう使われ方をしたらいゝとおもっているよ」
「必要な人が必要な時に使うの」
「そうだよ。昔そんな共同生活をしている処があると聞いたことがある。畳表を作っている処と聞いたかな。何人かの共同生活で、お金は笊にさげて土間に置いてあるらしいよ。必要な人が必要なだけ、誰れに云うこともなく使うらしい。それを聞いた時、若かったということでなく、いゝ生活だなあと思ったよ」
「そんなこと信じられないわ。悪い人がいたらどうするのよ」
「ほら、その一言の出発点がいけない。他人を信用する以前に、自分の心を信用しないとね」
「難しいわ。自分も信用出来ない時もあるし、他人に至っては勿論よ」
「悲しいね。責めているんじゃないよ。悲しいね」
「世の中には歴とした悪人がいてよ。自分のことしか考えない人はいてよ」
「そりゃそうだろう。その人達との生活は無理な話だ。けど心をゆるした者同志だったらそんな生活をしてみたいとおもわないかい」
「考えたことはないわ。おもいがけないことよ」
「わたしは人から見れば特別の苦労をしたとおもうよ。だけど、だからかな、そんな生活はしてみたいね。陰ながらその人の役に立っているとおもえる時程、安堵のおもいになる時はないよ。そうかい堅物のお前の役にも立ったのかい」
「私は堅物ではなくてよ。必ず返してよ」
「本当に困った人だ。あきれるね。ありがとうの一言でいゝのに」
「親しき仲にもよ」
「なにが親しき仲にだよ。面白いことを云うね。わたしゃ、九十年生きてきた。あの人に一言お礼を、あの人にも一言と、そんなおもいばかりだよ。生きて来たという事実はそのおもいだけになるね」
「一寸だけでも話して、気持ちが楽になってよ」
「よかったと云って上げたいけど、そうたいしたことでないのに、大層な話だ。時間を浪費したよ」
「なにもすることないと云ってたのと違うの。時間の浪費と云われるのは心外よ」
「そうかい、お前でも怒るかい。そういえば、こゝ十何年お前は怒ったことがないと云っていたね。あれも本当かい」
「誰れに聞いたの、本当の話よ。私はこの十何年怒ったことがなくてよ」
「堅物に磨きがかゝって来たようだ。そうかい。堅物と云えばその引き出しに堅焼きのせんべいが入っている。一緒に食べようか」
「お母さん、歯がないのになんでこんな堅いおせんべいを食べるの」
「それがお前、醤油がたっぷりしみこんでね、歯がないから、噛めないからしゃぶっている。それがまたなんとも云えない醍醐味でね。歯が全部なくなってしまった、これ幸いなるかなだよ」
「………」
 
 

2002

第3期 5話 完



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