第 3 期 第 1 話

今思えば、あるかなしかの うつゝの話
母と娘の対話 其の一


「お母さん、びっくりさせないでよ。朝早く連絡があって、意識がなくなって救急車で病院に運ばれたと云うでしょう。あーとうとう其の時が来たとおもったのね。そうしたら病院で意識が戻り、すぐに又、施設にもどったというじゃないの」
「お前でも心配してくれるんだね」 イメージ拡大表示 522×700(48Kb)
「当たり前でしょう。一体どうしたの」
「いやね。生きているということを忘れてしまってね」
「それ、どういうこと」
「わたしゃ、もう九十三だよ。体は特に内臓はどこも悪くない。唯、体中の力が日に日にぬけてゆく。
  あの時も来し方のあれやこれやが去来してね。意識がなくなったなんてとんでもない。はっきりとしていますよ。唯生きているという意識は別に持たなかったね。それはもう、どうでもよかったんだよ。そうしたらお前、救急車で運ばれ病院についたとたん、注射はされる、蘇生の為だといろいろやられる、はっきりと目が覚めてしまった」
「じゃ、全部分かっていたの」
「あの時はね」
「私は生きていますと云えばよかったのに」
「それがお前、生きていることを忘れていたと云っただろう」
「そんなものなの」
「お前、酸素を吸っていると、いつも意識しているかい」
「いつもは忘れていますよ。当たり前でしょう」
「歳をとる、もう九十三だ。脳だけは生きていて、呼吸していることなんかすっかり忘れている時が多いんだよ」
「うと〃〃うと〃〃してもうなんにも感ぜず、考えてもいないように見えるけど」
「とんでもないよ。考えてはいないよ、もう考えるなんてことは全然しないよ。する必要もないからね。けど来し方の映像だけは去来するね」

「お母さんの生涯は、年代としても、個人としても波乱万丈の時代だったですものね」

「お前にも分かるんだね」
「分るわ。感謝していますよ。若くしての結婚、子供を置いての離婚、朝鮮行、再婚、二人の娘の出産、お父さんの突然の死、そして三人目の娘の出産、敗戦、ソ連軍の進攻引揚げ、広島原爆投下による実家破壊、そして京都に来て引揚寮を皮切りに母子寮と、私達チビ三人をかゝえての孤軍奮闘、唯々感謝していますよ」
「それだれの話しだい」
「お母さんの生涯ですよ」
「わたしゃ、まだ生きているよ」
「分かっていますよ。私より元気だわ」
「そんな馬鹿な、わたしゃもうボロボロだ。なにも考えてないよ。忘れたね。唯、映像だけは走馬灯のように、次から次へと出てくるんだよ。否応なしだね」
「はっきりと分かるの。何時の頃かとか、誰なのかとか」
「ほとんど分からないね。。順序は出鱈目だからね」
「ちゃんとした物語になってないのね」
「そうだよ。出鱈目だ。けど全部体験したことには違いない」
「花園が見えて、川があって、川の向うで親しかった人達が自分を手招きしているとか」
「お前は馬鹿だね。そんなのは夢の現実じゃなくて、人間の脳が勝手に空想するだけだよ。人間みな同じような脳を持っているから、同じような願望の夢を見るだけだよ」
「でもあの世はあるのよ」
「あるわけないだろう。第一その必要はないよ、もう十分だよ」
「お母さんはあの世でのことは全く考えてないの」
「ないものを考えてもしょうがないだろう。子供の時死のうと、若くして死のうと、年老いて死のうと、死そのものは無惨なものだよ。魂もその時一緒に終わるんだよ」

「私は違うと思うわ。この世には神様や仏様がいて教祖さまがいらして、人々の魂をやわらげ、あの世での約束をしてくれる」

「ほんとにお前は馬鹿だね。動物や虫たちや植物の方が、はるかに自分を知っているよ」
「まさか、神さまがいるからこそ光があり、生き方がさだまると思うわ」
「人間らしいね。お前の方がわたしより人間らしいね。やはり人間として進化してしまったのだろう。情けないことだ」
「なにが情けないのよ。人間はますます人間らしく、能力は生かし切って生きることが大事ででしょう」
「余計な努力だ。第一お前、お前が云う神さんや仏さんや教祖さんが、生れるはるかはるか以前にこの地球の歴史は始まっているんだよ。生命も誕生している。人間なんかついこの間生れたばかりだ。神さんや仏さんも教祖に至ってはほんの一寸前に、生れたばかりだ」
「神さまや仏さま教祖さま達の力は偉大ですよ」
「立派な人達であることはよく分るよ。あの人達は、人間のあり方、生き方を教えてくれているだけだよ。霊魂とか死後のことは全く別、そんな話は出鱈目だし、聞きたくもないね」
「それじゃ、お母さんは死んだ時お坊さんにおがんで貰わなくてもいゝと云うこと」
「勿論、お坊さんはお断りだね。葬式はしてほしくないね」
「じゃどうしたらいゝの」
「お前達がいるじゃないか。すぐには他の誰れにも知らせる必要はない。お前達だけで火葬なり土葬なり、都合のいゝようにしたらいゝ」
「寂しいのね」
「死は寂しいものだよ」
「みんなにはどう知らせたらいゝの」
「それはちゃんと用意してある。親しい人、お世話になった人達には用意してあるものに手紙を添えて送ってくれたらそれでいい」
「手紙は誰れが書くの」

「一人一人宛にちゃんと書いてある」

「何時書いたの」
「ずーと前だよ。まだまだ元気で動き廻っていた頃にね」
「今際の言葉ではないのね」
「一番元気な時というか、今一番充実しているかなと思える時に書いたよ」
「それは何故なの」
「お前達もそれぞれに結婚し子供も出来、私も仕事を終えて時間のとれた時、来し方をおもい、感謝の気持の充実している時に、一人一人にお礼の心をこめて書いたよ。泣きごとはひとつもない。唯々、感謝だけだよ」
「いまわの一ことは」
「坊さんならともかく、私らに死の直前の遺偈を望むのは酷だよ」
「死はこわいわ」

「死ぬこと、この世との別れは別にこわくはないよ。みながそうしたことは通り越して来ている、当然のことだからね。唯、肉体的な苦しみが伴うとしたら、それはやりきれないね。それこそお前じゃないが、神さまのせいにしたいね。それでもあなたは神さまなのですかと云いたいね」

「すべて神さまのおぼしめしよ」
「私はそんなふうに考えなくとも、いゝと思うよ。どんなに苦しくてもそこを堪えて神への信仰をもつのが、強いと思ったり、貴いと思ったりする必要はないよ。お前の神さんに云っておくれな。人間は生れべくして生まれ、生き、そして死ぬ。一個人の生命体として精一杯、力一杯で生き、死んでいくのです。最后位、すべての人をやすらかに死なせて上げなさいと」
「そんなこと云えないわ」
「何故だね。一人の人間を高く崇める、賛美する。それはいゝよ。だけど、神や仏や教祖として文句なしに崇めては駄目だよ。絶対的存在とする必要はない」
「でも人間は弱いですからね。そういう高い権威ある存在を思うことによって、自分らは保護され、高められているのよ」
「動物や虫たちもかい」
「勿論人間だけですよ」
「おかしいね。私はつくづく思うよ。生物はみな同じだね」
「そんなこと思っているから崇める気持ちになれないのよ」
「すべての権威のもとでのピラミッド型は嫌いだね。なにが偉い、なにが頂点なのか。みな同じだよ。精一杯生きた、そのすがすがしさだけで十分だよ」
「知性は大事よ。人間らしい知性をもって生きたいわ」
「小さな虫でもどんな小さな草でも、どんなにすばらしい知恵をもって生きているか。もう見ただけで、知っただけでもワクワクするよ」
「お母さんとこんな風に沢山話が出来たのは嬉しいわ。意見はまるで違うけど夢のようだわ。これもきっと神さまのおぼしめしだと思うわ」
「お前、大丈夫かい。意識はしっかりしているんだろうね。救急車を呼ぼうか」
「・・・・・・・・・」
 
 

2002

第3期 第1話 完




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